まさにこのありありとある私ただひとつがある。それは端的な私であり、けっして記憶や性格でもなければ、一般的な意識や精神や魂と呼ばれるものでもないのだが、言葉で語ろうとすると簡単にたくさんある私のなかのひとつとなり、一般的な心というもののひとつの個別事例になって、見失われてしまうのだ。
この私という説明不可能な例外的存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きを起点につむぎだされる独創的思索の広大な射程。長い哲学の歴史のなかで見逃されてつづけてきた、しかし根本的な問題を発見し探究しつづける哲学者・永井均の最新の思索は、私・今・現実の不思議を新たにゼロから徹底的に考えぬく。仏教やインド思想の無我・真我を論じる付論を付す。
“私”の存在という問題の真の意味
デカルト的省察―“私”の存在は世界の内容にいかなる影響も与えない
独在性の二つの顔
相対主義とルイス・キャロルのパラドクス
フィヒテの根源的洞察から「一方向性」へ
デカルトの二重の勝利
ものごとの理解の基本形式とそれに反する世界のあり方
自己意識とは何か
いかにして“私”や“今”は世界に埋め込まれうるか
人計から東洋の専制君主へ
他
コメント