あけましておめでとうございます。ご挨拶が遅れてしました。
バタバタして、もう1月が過ぎてしまいました。
2025年は様々な人と出会い、皆さまとのご縁に支えられながらなんとか新年を迎えることができました。本当にありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
最近は去年の10月に発売されたアダム・グラントさんの『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』という本と、いまだにらめっこしています(笑)。人間の内に秘めた可能性のお話ですね。

はじめは 解説・要約を書きたかったのですが、書かれていることは社会科学を基にしたハウツー本のように見えて、実はそうではないのです。アダム・グラントさんの有名な本「ギブ&テイク」でも同様ですが、現象から逆算して解説を試みるわけですけれども、どうしたらそうなれるかの「どうしたら」には、近づくことができない。ゆえに語られることはないのです。
ギバーは「ギバーという自覚がない」ゆえに、ギバーなのではないでしょうか。
そこにいたるにためには、「経験知」という漠然とした表現のみでしか語り得ないような、何か奇蹟のような出来事の連続がそこへ導いていったと言った方がいいかもしれません。その人の人生の織り成すあらゆる苦悩や試練の紆余曲折の後に到達する地点であると。
ですから、”ギバーは成功するらしいから、これから私もギバーになろう”などと言って、明日からギバーになれるものではないし、努力してギバーになろうとして、なれるものではない。と、私は感じでおります。
ギバーっぽい行動はとれるけれども、長続きはしないでしょうし、本物のギバーからすぐにバレてしまうのではないでしょうか。
アダム・グラントさんの本の特徴は、どうしたらそうなれるかは語ることはありません。科学的に語ることができないからでしょう。しかし、こういう人たちはこういう行動の傾向がある。その要素は”これ”であると言うことはできます。ところが肝心の”これ”はいかにして獲得するのかは定かではありません。
それは「経験知」として血肉して現れている行動ゆえだからではないでしょうか。
ですから、これらの本を読むことで、”自分の行動や判断は間違ってはなさそうだな”と確かめることはできても、”明日から自分もこうしていこう”などというハウツー本では一切ないことが特徴のように思います。しかし、組織心理学という”組織における人間行動を科学的に研究する学問”を基盤としているため、何か解決策(ソリューション)を提示しようとするゆえに、ビジネス書としても紹介されているという不思議な本という印象があります。
アダム・グラントさんには隠れた主題があると思っています。
GIVE&TAKE、ORIGINALS,THINK AGAIN,HIDDEN POTENTIALと4冊の読者ならなんとなくわかると思うのですが、読者のうけがいいように、”成功している人”を分析する話が多いです。しかし、単なる億万長者を対象にしているのではなく、”幸せ”というキーワードをかなり中心に置いていることは感じとれると思います。4冊のなかでも異色なORIGINALSさえ、その視点が最後に見て取れます。
「オリジナルでいる」ことは、幸せにいたる道としては、けっして簡単なものではない。しかし、それを追い求めることの幸せは何にも代えがたいものである。
アダム・グラント 『ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代』 三笠書房 P368
もっと具体的に言えば、『”幸福”なるものの近くに住まうことができる人々』でしょうか。
アダム・グラントが科学的に知ろうとしている対象は、そういった人々が現にいて、一体何が他と違うのかに接近しようとしているのではないかと思うのです。
「幸福とは何か」はとても難題なのでここでは避けますね。
そうではなく、心の病や心理的問題への治療や助言を試みてきた心理学へ少々視点を変えたいと思います。そこでは、”病”にある人とそうでない人を区別し、病への治療や回復への研究が続けられてきました。(もちろん心理学を通して人間を理解する際の限界を指摘する声もあります ミシェル・フーコー)
なぜ”病”という言葉を登場させたかといいますと、ちょっと強引ですが、わかりやすくするために病と幸福とを、つまり”病にある人”と、”幸福にある人”を対義語として解釈したほうがわかりやすいかなと思ったからです。そうすることで、先ほどの人々、『”幸福”なるものの近くに住まうことができる人々』は、病んでいる状態から遠いところに住んでいると考えることができるように思います。(仮定)
心理学の話を持ち出しているのには理由があります。
アダム・グラントさんの『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』の中で語られている、”性格スキル”がとても心理学的だからです。(組織心理学)
”性格スキル”に言及している箇所を抜き出してみました。
本書で探求する「性格・人格」とは、その人の人間的な器の大きさや、精神的な深みといったものを指す。それは、困難な状況にあってもそのときどきの感情や直観に流されることなく、自身が本当に大切にしている価値観や信念に基づいて、粘り強く行動し続ける力、そういった後天的に磨き上げていくことのできる「心の力」といえるだろう。
アダム・グラント 『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』 三笠書房,P48
…意志力こそ、性格スキルの中でもとりわけ重要な資質といえるだろう。そこでは三つ勇気がもとめられる。
第一に、「自分にとって最適」だと信じ込んでいる手法を捨てる勇気。
第二に、自分の心の準備が整う前に、挑戦の場に飛び込む勇気。
第三に、誰よりも多くの失敗を経験する勇気。成長を加速させるための最良の方法は、不安感を受け入れ、探し求め、さらには意図的に増幅させることだ。
アダム・グラント 『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』 三笠書房,P58
不快感が生じた際、それを最小限に受け流すだけでは不十分である。驚くべきことに、人間は不快な経験を積極的に重ねることでこそ成長するのである。
アダム・グラント 『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』 三笠書房,P68
人間は、自らの欠点を受容することで成長する。ただ責めるだけでは不十分であり、失敗や欠点を認め、受け止める必要があるのだ。
アダム・グラント 『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』 三笠書房,P130
人の成功というものは、生まれ持った才能や能力だけで決まるものではない。むしろ、新しいことを学び取ろうとする力、そして何よりも、それを成し遂げようとする強い意欲、そういった内面的な資質こそが、人の将来を大きく左右するのだ、と。
アダム・グラント 『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』 三笠書房,P378
この本の軸は「心の力」だといっても過言ではないでしょう。「心の力」は可能性への力であると。
それでは、可能性が閉ざされてしまっている状態とはいかなる状態かということも、逆説的に知り得ることができそうです。上のアダム・グラントの引用の逆のことを示せばよいのですから、それは不安感・苦痛・苦悩を引き受けることから逃げるようとすること、となるでしょう。
アダム・グラントは可能性という人間の「心の力」というキーワードでもって、そういった人々に近づこうとする視点を見せてくれます。一方で、まったく別の視点から、病または神経症の患者と向き合ってきた研究から、同じような不安感・苦痛・苦悩について言及しているユングという人がおります。
心理学の大家の一人、ユングの言葉に一つの名言みないなものがあるのです。
神経症とはつねに、当然引き受けるべき苦しみの代用物なのである。
THE COLLECTED WORKS OF C. G. JUNG COMPLETE DIGITAL EDITION
Volume 11 Psychology and Religion:West and East [129]
この二人の発言は、まったく別の視点からのアプローチであるにもかかわらず、人間の深淵にある何か同じ個所の部分を別方向から見つめ捉えている、といってもいいように思うのです。
この点について、わかりやすいので1978年に真っ先に言及しているスコット・ペックさんの『愛と心理療法』から引用したいと思います。
問題と、そこからくる苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一次的な基盤である。われわての多くは、程度の差こそあれこのような傾向をもつ。したがって多少なりとも精神的に病んでおり、まったく健康というわけではない。・・・しかし(ユングの言う)代用物そのものが、究極的には、当然引き受けるべき苦痛よりも苦しいものになる。そして神経症そのものが、最大の問題となる。多くの者が今度はこの苦しみ、この問題を避けようとして、神経症の層をさらに重ねていく。幸い、ある人には神経症に立ち向かう勇気があり、-通常は心理治療の助けを借りて-当然の苦痛を引き受ける方法を学びはじめる。いずれにせよ、問題に対処することから生じる当然の苦痛を避けることは、問題が要請する成長をも避けることになる。
全く別のアプローチにもかからわず、半世紀を経てなお、このあたりが肝なのだろうと考えることができそうです。続けて冒頭の箇所でこうも言っているのです。
したがってわれわれは、精神の健康をかち取る手段をわらわれ自身と子どもたちに教えこまねばならない。それは、苦しみの必然性およびその価値、問題に直面し、それにともなう苦しみを経験する必要性を教えることである。今まで、訓練こそ人生の問題を解決するのに必要な基本的手段であると述べてきた。その手段とは、苦しみを引き受ける技術、つまり、問題を徹底的に受け止めてうまく解決し、その過程で苦しみを引き受けながら学び成長していくことである。訓練することを教えるとは、いかに苦しみ成長するかを教えることにほかならない。
スコット・ペック 『愛と心理療法』 創元社 p16
成長という人間のもつ可能性を見つめている点も似通っています。

改めて話を戻します。
アダム・グラントが『HIDDEN POTENTIAL 可能性の科学』の中で”性格スキル”が重要である、肝であると語っています。しかもそれは年齢に関係なく簡単に伸ばすことができると、世紀の大発見のような軽々しさで語られている感が否めません。一見するとポジティブに読めるます。
しかし、個人的にはその”性格スキル”は非常に難易度の高いスキルだと思うのです。
スコット・ペックさんの話が本当なら、私たちは苦悩から逃げたいという傾向をもっている。多少なりとも精神的に病んでいるところからスタートしています。ところが、訓練を受けるべく幼少期、学校で出会う先生やメンターが神経症的傾向を克服している人物である保証はどこにもないのです。いまのところ誰にもそれは測れません。どのような先生やメンター、友人に出会うかは、運命にゆだねられているともいえるでしょう。本書にあったようなフィンランドの例ように意図的な仕組みを作らない限りは。(※優れた担任教師との差が生じている[経済学者ラジ・チェティ共同研究 注釈p412])
ゆえに、アダム・グラントのいう”性格スキル”を獲得することは、後天的に磨き上げることができるといえども、言うは易く行うは難し、紆余曲折の先にある奇跡の道のりの先にあるスキルなのではないでしょうか。それは自分がたまたまスコット・ペックの著書を手にとったように、または偶然にアダム・グラントの著書を手に取ったように、意図せずに”そう知り得た”ような代物なのではないか、と思うとろころがあります。
積極性、向社会性、自己統制力、意志力、それらの「心の力」が重大が役割を担っていること、それが後天的に誰にでも磨いていけること、自身の人間性、人格そのものを豊かに磨き上げていくとこの重要性を示したことは大変大きな成果であることは間違いありません。
しかし、積極性、向社会性、自己統制力、意志力。これらの何れかでも、その力が私には備わっていると思っている人がいるなら、いつそれをどのようにして身につけたか、説明できる人はたぶんいないでしょう。性格は変えられるものであるけれども、何か境界線があるわかりやすい代物ではない故に、向社会性を本書のように、「どれくらい親しく同級生と交流し、共同作業が行えたか」と定義した途端に、とてもチープなものに成り代わってしまいます。実際はもっと漠然と焦燥感に似た緊張の只中で、決断と行動の連続が性格を形作ってきたのではないでしょうか。
現代のような、一寸先は精神疾患の烙印を押されてしまうような時代に、この”性格スキル”はさらに難易度が上がっているように思います。スコット・ペックの『愛と心理療法』のような本は、誰も見向きもしなくなっていくのではないでしょうか。(もっと手っ取り早い成果を求めようとするのが常である故)
ただし、ややこしいのは逃げるといっても回避することは防衛本能の現れとして正しい行いである場合もあります。問題なのは何がなんでも都合よく解釈して”逃げ癖”なるものが染みついてしまっている場合を指摘しているのだと思います。
アダム・グラント、スコット・ペック両者の著書からわかることは、引き受けるべき苦悩や苦痛からいかに逃げる人が多のか。現実はますます可能性が閉ざされてしまうような間口も広がりをみせており、神経症・精神疾患へ向けて”引き受けるべき苦悩”から逃げやすい世界も広がりをみせつつあるように思います。苦悩から逃げれるサービスの数々、即座に最適解に囲まれた世界。それは良い面と悪い面、何かを失っているかもしれないとどこかで気が付かなくてはならないのかもしれません。ユングならこう言うでしょう、逃げた先にはさらに辛い苦痛が待ち受けているかもしれないと。身の丈に合わない背伸びは、いつか疲れ切ってしまいます。
アダム・グラントは成功者、成功例の人々の分析から何か共通点を見つけ出そうとして。
スコット・ペックは何かの精神疾患ゆえに日常生活に困り果て治療を必要とする臨床の世界から、治療の必要のない人に成長してもらおうと願って。
両者の本は共に、『”幸福”なるものの近くに住まうことができる人々』を見つめているように思うのです。
そして、そこにはひとつの共通点がありました。
「苦悩を引き受けて我が物にすること」です。(そういった心構えや忍耐力の有無であると)
そういった性格スキルを幼少期に身につけている場合とそうでない場合の、大人なった後の追跡調査では大きな違いが見られていると。(ノーベル賞経済学者 ジェームズ・ヘックマン 『幼児教育の経済学』など参照)半世紀前までは一人の精神科医によるいろいろな患者から見えてきた経験知であったものが、昨今では少々データを基に示されつつあるというのが現在進行形で進んでいるように思います。

以上です。
かなり書きなぐった文章なので整合性があるかどうか疑わしいです。たんなる個人的な呟きですのであしからず。
あと、バッハのカンタータも次はBWV 235を記事にしたいなと思っております。ルター派ミサ曲の一つで、過去に作られた教会カンタータの楽曲をいくつか再利用した曲なんですけれども、時間がないから楽曲を再利用して作ってみました的な感じではないのです。バッハは神の御前でそんな真似はしませんね。バッハで有名なミサ曲ロ短調もあります。その曲の自筆譜がユネスコの世界記憶遺産に登録さているので知っている人は知っているかも。ミサ曲ロ短調はニカイア信条も歌われておりますのでさらに宗教色が強くそして長いです。個人的には私はキリスト教徒ではないのでカトリック感満載で重いと感じてしまうんですよね。いつか解説を試みれるようになりたいと思っています。
哲学堂書店 浦山幹生



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