岩波文庫 リスト作りにおいて

学生時代からお世話になっている岩波文庫。最近ではスマートフォンで電子書籍を読む時代に変わりつつあるのかもしれませんが、小さくて軽くてコンパクトな文庫本や新書は今も健在で、通勤の合間に読んでいる方はよく見かけますね。

そこから電子書籍で読むか紙媒体で読むかという21世紀らしい問題がありますが、今では少々棲み分けが出来つつあるようで、「調べる」「確認する」という要用には電子書籍が、「学習する」「理解する」という要用には紙媒体が良いと言われております。ただし検証可能な手法を用いた研究では、その差異は実は少ないそうです。The Reading Brain in the Digital Age: Why Paper Still Beats Screens(SCIENTIFIC AMERICAN,November 2013,Volume 309, Issue 5)

ただし、記憶に残るかどうかという項目に関しては差があるようです。ちょっと古い記事を掘り返してしまいましたが、やはり個人的には紙媒体の本で読むのが好きですね。本の種類や個人差はあると思いますが、私にとって読書という行為には、何か娯楽消費としてというよりかは、獲得(内容や知の獲得)としての読書の意味合いが強いからかもしれません。上の研究報告でも「理解度」というところを見ていたりしますが、しかしよくよく考えてみますと、理解した。理解できた。というときの「理解」という言葉の使用には、もちろん記憶のベースがなければなりませんが、その意味内容等を記述できるかどうかという点が、他者に対しても己に対しても了解を得て成り立ちえるかという過程を要求する、そんな使われ方をしている気がします。つまりは「理解」という言葉には「確認」の過程を要求したりするところがあるように思います。もちろんそれは「○○=○」という既に確立された知の形を要求するだけのものではなくて、「自身の言葉の使用をもってその意味内容を書く・論述する」という形の確認を理想として。
理解とは何か (コレクション認知科学 2)

そういった意味で、ブログというツールはとても画期的だな~と思うのですが、その反面インターネットに公開して、他者にも開かれているはずにもかかわらず、「ここは私の世界(ブログ)なのであなたは入ってこないでください」という空気が感じられてしまうのはなぜでしょうね。

もし個々ばらばらのものが輪として横につながることになったら、何か素晴らしいことのように思いますし(おとぼけ)、一石二鳥な感じがします。

実はそんな思いで、2012年くらいに一度、そういった場の提供を試みたことがありました。そのときはPythonで作られてるZopeフレームワーク上で動くPloneとうCMSを使用して作っておりました。ただ資金もなく格安のvpsサーバーを借りたためセキュリティー構築が大変で、主に中国とロシアから辞書攻撃を受け続けてました(笑)乗っ取られはしませんでしたけども。GitHubもまだ対応できてなかったはずで、バージョンアップも手動でいろいろやっていた記憶があります。(Gitのバージョンアップ管理はすごいですね)しかし結局いろいろ手間がかかり停止してしまいました。(力量不足です)黒歴史ではありますがすごく勉強にはなったのでよしとしましょう(笑)。

ただこのPlone(オープンソース)はそいう場の提供に向いているようなシステムで、今もなお注目しております。
現在はもうPlone5だそうで、ITの世界は進化が早いですね。

最近はもう一度挑戦してみようかな~という思いがふつふつと沸いてきております。「ソーシャルネット・ブッククラブ」という構想で、コアな人をターゲットに作りましょうかね。今流行りのクラウドファンディングやってみますか!(笑)

今回の岩波文庫のリスト作成も、岩波文庫のプロモーションも兼ねた思いで始めたものですが、情報配信と共に興味を持っている方々の背中を後押して、手にとってもらいたいわけです。さらに深い思いもありますがここまでにしておきましょう。

話は戻りますが、岩波文庫のリストを作成していて思ったことに、昭和25年より前の作品のいくつかには著者番号がないものがありますね。岩波文庫の初期のころはそいうったところはまだ確立されていなかったのかわかりませんが、リスト作成時にはどう扱うべきかちょっと困り、リストの下の方に詰めておきました。また2000年以降は著者番号のキャパシティーを超えてしまうという問題もあったようで、現在はN112-1のように[N]を先頭にいれて重複をさけているようです。この[N]はそういった意味があるのですね。そして、確か1983年を境に岩波文庫のカバーがグラシン紙から、今現在のPP加工された表示に切り替わることになり、重版されてないものは今も表紙が切り替わっておりません。そんな文庫の中には結構高値で取引されているものもあります。

また、何よりも興味深いのは、グラシン紙をカバーとして使ったことで、日本独特のブックカバー文化に、さらに異なった要用として発展していったのは面白いところです。その流れで蔵書の保存にもグラシン紙やパラフィン紙が使われ始め、あいだに中性紙問題という出来事が契機となって形成されていったように感じます。たぶんパラフィン紙は高いので岩波文庫に使用されていたのはグラシン紙でしょう。

古本用語では「元パラ」といわれたりします。これが残っているか残っていないのかでいろいろ変わってくる場合があるわけです。蔵書においてもパラフィン紙を掛けておこうという文化もそういった背景があってのことなのだと思います。よくわかる一例を記しておきます。

“これだから古本漁りはやめられない。神田の英米文学専門店なら一万円はふんだくられようという代物である。帰宅してからカバーにパラフィン紙を掛け、宝物のように書架に納めたことはいうまでもない。”
『古書の味覚』山下武 青弓社(1993)

このカバー文化は先ほど日本独特といったように、海外ではハードカバーの本に付いているくらいで、呼び名もブックカバーではなくダストジャケット(dust jacket)やブックジャケット(book jacket)と呼ばれております。そして海外のビブリオフィリア(Bibliophilia)愛書家やビブリオマニア(bibliomania)猟書家の方々の本棚は、日本とは違ってそのまんま本が置かれているようです。ただし本が作られてきた歴史は海外の方が早いため、最も古いブックジャケットが見つかったということで、2009年にニュース記事みたいなものが出ててもいます。

それはオックスフォード大学 ボドリアン図書館で発見されたようで、
Friendship’s Offering for 1830. London: Smith, Elder, & Co., 1829“という本だそうです。

dust jacket

A Brief History of the Dust Jacket

ただ記事によりますと、発見されたダストジャケットはなんだかギフト用の包み紙みたいなものに包まれていた物のようで、日本人の感覚でいうブックカバーとはちょっと違うのかな~と思います。dust jacketと言っているわけですから、たぶん「埃を避ける」ことに重点がおかれたものなのでしょう。しかし、他の記事をみますとまた少々異論があるようで、他にももうちょっと古いものがあるのだそうです。

Neues Taschenbuch Von Nürnberg (2 Volumes)

こちらはドイツで出版されたもので、現在出品されて売られています。そのお値段約80万円。高い!

っとこのまま延々と続いてしまいそうなのでここまでにしたいと思います。不定期ながら次回も本について何か書いてみようかなと思います。

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