自己家畜化 現象 とは? それは協調・友好と好ましいことか、それとも選別なのだろうか?人は自らを家畜化することで、攻撃性を抑え、協調・協働・コミュニケーション能力を発達させ、安定した集団社会を築くことに成功したのだろうか?
自己家畜化とは何か?
少々長いですがわかりやすいので、『ヒトは<家畜化>して進化した』ブライアン・ヘア、ヴェネッサ・ウッズから一部引用いたします。
ほかの人類が絶滅する一方で、ヒトが繁栄できたのは、ある種の並外れた認知能力があったからだ。それは「協力的コミュニケーション」と呼ばれる、特殊なタイプの友好性である。・・・この能力があるからこそ、ヒトは他者の気持ちを理解でき、前世代からの知識を受け継ぐことができる。その能力は、高度な言語をはじめとする、あらゆる形の文化や学習の礎だ。そうした文化をもった人がたくさんいる集団が、優れた技術を考えだした。ホモ・サピエンスは独特な共同作業に長けているおかげで、ほかの賢い人類が繁栄できなかった場所で繁栄できたのだ。
動物の研究を始めた頃、私は社会的な競争ばかりに注目していて、コミュニケーションや友好性が動物のみならずヒトの認知能力の進化にとっても重要になりえることに、まったく思いが至らなかった。他者をだましたり、ごまかしたりする能力の向上という面から、動物の進化的適応度を説明できると考えていたのだ。たが、私が発見したのは、賢くなるだけでは十分ではないということだ。人間の感情はやりがいや痛み、魅力、嫌悪を感じるうえで多大な役割を果たしている。人間が他者にまつわる問題を解決しようとしたがることは、認知能力を形成するうえで計算能力と同じくらい重要な役割を果たしている。社会的な理解や記憶、戦略がどれだけ高度であっても、他者と協力してコミュニケーションする能力がなければ技術革新はもたらされない。こうした友好性は自己家畜化によって進化した。家畜化は、人間が動物を選抜して交配する人為淘汰だけで生じたわけではない。自然淘汰の結果でもある。ここで淘汰圧となったのは、異なる種や同じ種に対する友好性という性質だった。私たちは自然淘汰で生じた家畜化を「自己家畜化」と呼んでいる。
『ヒトは<家畜化>して進化した』ブライアン・ヘア、ヴェネッサ・ウッズ
この本では友好性というキーワードが注目されています。
この友好性とは何なのでしょうか。ひとまず友好的であって攻撃的ではないことはわかります。この攻撃的ではないという視点から、攻撃性について研究している『善と悪のパラドックス』リチャード・ランガムという本があります。こちらの本では攻撃性を二種類に分けて分析しています。即座に怒りを爆発させるタイプの「反応的攻撃性」と、その場での怒りをコントロールし遠回りに攻撃・排除する「能動的攻撃性」です。チンパンジーは「反応的攻撃性」が強く、ボノボやヒトではそれが「能動的攻撃性」にシフトしているという現象が確認できるようです。(詳しくは参考書籍をご覧ください)
ブライアン・ヘアは寛容で残酷な人類の繁栄に、特殊なタイプの友好性が不可欠であったという。はたして、この友好性というモノサシは幻想か、行く先の道を示しうるものなのでしょうか。
反応的攻撃性からみる自己家畜化
少々強引ですが、「反応的攻撃性」の現れを「他殺」としてとらえてみるとき、ここ最近の日本はどうなっているのでしょうか。犯罪統計をみてみますと、
・暴力犯罪による死亡者数と人口10万人中の死亡者率
1926年は、人口比が926年以後の最多で実数が3,329 人・人口比が5.48人
2021年は実数・人口比ともに1926年以後の最少で実数が642人・人口比が0.51人であった。
警察庁刑事局捜査支援分析管理官 令和3年1~12月犯罪統計【確定値】
グラフで表すと、以下の社会実情データ図録を参照ください。
統計上ではむしろ、自己家畜化仮説のように暴力・他殺の件数は年々減り続け、日本に生息するヒトは怒りをコントロールするとこが出来てきている。つまりは友好的な方向へ向かていると、ひとまず言うことができそうです。これは上の本から見れば、自己家畜化が進んでいると解釈することができそうです。
しかしながら熊代亨氏の記事にある、この自己家畜化のスピードに対応できない人々がいるという指摘は何なのか。ここに一体何が起こっているのでしょうか。
自己家畜化のスピードに対応できない人々とは:熊代亨 精神科医
以下にあります精神科医 熊代亨先生の記事を拝見いたしますと、家畜化のスピードに対応できない人々が増えてきているとあります。(まずはご覧ください)
自己家畜化のスピードが早くなっているとすれば、本来カオスな人間像から情報化が進み、私たち人間もひとつの情報として規定と同質化が進んことろが大きいのかもしれません。しかし、今回はこの点にはあまり深入りせず、精神科医の先生が申し上げているということからわかるように、先進国で年々増え続けている精神疾患の増加と関係があるのではないかということで話を進めてみようと思います。
精神疾患の遺伝的基盤による多形質発現仮説は昔から知られていることですが、なにも楽園追放仮説、適応的堅実性仮説、準備性仮説、正規分布説、ホメオスタシス説、包括的適応度説等を取り上げて掘り下げていくのではなく、ここでは簡単に大きく二つの側面をみていきたいと思います。
このように人為的に診断の範囲を広げた結果でもあり、なおかつ社会環境の変化により過度な適応が起こった結果という両方の側面が大きく関係しているという意見もあります。
精神医学からみる<正常>とは?
シナプスの刈り込みに異常が起こるような場合など、単に遺伝による決定論的なものでもなく、刈り込み時期に過度なストレス環境にいるかいないかによってもその現れ方が変わっていくのではないでしょうか。(偏桃体が左右で大きさが異なるなどのサイコパシー脳も、遺伝のみということでない。遺伝子は固定されているわけではなく、環境からの刺激によっても変化していく。)
さらに、あまり不確かなことは言えませんがこの半世紀程度の家族世帯の変化や女性の社会進出も、何万年という人間の進化の歴史においては、とても急激な変化が起こったとも考えられます。胎児や幼児にとっては養育環境の急変から異常事態と判断され過度な適応が起こってしまう場合があるのかもしれません。つまりは母子関係に何らかの急激な変化が生じる事態が増えたとも考えられそうです。(『ボウルビイ 母子関係入門』ジョン・ボウルビイ)
ADHDは多動が注目されますが、安全地帯・安心できる場所を常に探し求めているような姿をみせているようです。
ASDは変化によるストレスを根元から遮断しようとしているかのように、他者の顔の変化や感情を読み取ること、またはそれを考慮することが必要だと感じないていないようです。だれにも頼らず一人で生きていくことを運命づけられた個人主義の化身のような姿をみせているように思います。(しかしながら孤独を感じているとも)(実際はスペクトラム症候群と名付けらえているように、さまざまな特徴を併せ持っているためその特徴を正確に抽出することは困難)
上のような例は、”健常・正常”を正確に定義できない精神医学において発達障害(神経発達症)と診断されますが、別の視方をすれば、特異な環境下による適応の結果なのかもしれません。(そしてこの特異な環境下の出現が何らかの理由により先進国内で増えている?)
しかし、このスペクトラムの隔たり具合で日常生活に支障が起きてしまうことは、不幸とみるのかどうか難しいところがあるといえます。資本主義的態度の合理化・効率化の軸から、取捨選択を余儀なくされる世界で取捨選択が困難なために弾かれてしまうからなのか、自己家畜化という軸から逸脱してしまうからなのか。しかし一方では『普通という異常-健常発達という病』にあるあんこ屋さんの例のように、人々にある種の感染(ミメーシス)を引き起こしているのも事実でしょう。(『普通という異常-健常発達という病』兼本浩祐)
①社会の急速な変化ゆえに、過度な適応から増加しているパターン。(実質的な増加?)
②社会の急速な変化ゆえに、困難が表面化しやすくなり増加しているパターン。(認知が広まったにすぎない増加)
などと考えられますが、確かなことは一切わかりません。
自己家畜化と[活動]の縮小
もし私たち人間の自己家畜化の結果として、人間には他者の存在と共にある公で共感や説得を試みて合意形成する能力があるとするハンナ・アーレントの「活動」やユンゲル・ハーバーマスの「コミュニケーション的行為」の思考が出現するとすれば、その反対は野生化・動物化ともいえるかもしれません。
テクノロジーの発達でコミュニケーションツールが発達しているけれども、情報量の少ない、ノイズの少ないコミュニケーションへ移行するあまり、私たちは気が付かずに[活動]を縮小してしまっている可能性があるかもしれません。(『動物化するポストモダン』東浩紀では”オタク”というマイルドな表現で対象を指していましたが、いまや精神医学ではその呼び名が存在しているといっていいかもしれません。)(『人間の条件』ハンナ・アーレント、『コミュニケイション的行為の理論』ユンゲル・ハーバーマス)
また、多方面で刺激的意見をもつペーター・スローターダイクの著作の一つ『「人間園」の規則』では、ヒューマニズムを知識人が生み出した操作術なのではないかと語っています。人文主義の本質を人間の獣性を飼い馴らす技術ではないかと。当時は自己家畜化という概念がなかったけれども、それは目的論的な行為ではなく、私たち自身の自己家畜化によって歩まざるを得なかった道だったのかもしれません。解釈は難しいですが、もし自己家畜化というどこかに向かうわけではない長大な物語が今もなお進行中であるとすれば、ポストヒューマニズムは自己家畜化からの解放でもあるかもしれません。ゲノム編集により「国家または社会のニーズに応えるお好みの人格を」。それは私たちの中で眠らされつつある動物性のデザインか、それともスローターダイクの言葉をかりれば、より磨きのかかった「選別」世界の到来なのかもしれません。(『ポスト・ヒューマニズム』岡本裕一郎、『「人間園」の規則』ペーター・スローターダイク)
自己家畜化からみる自閉症スペクトラムとサイコパス
視点を社会の方へ向けますと、今後特に問題になるであろうと予想するのは、非障害自閉症スペクトラムとダークトライアド(サイコパス)の特性ではないでしょうか。前者は”他者の感情が読み取りにくいという点”で、後者は”邪悪性”という点で、自己家畜化の方向とは逆に向かって突き進む存在のように思われます。
つまりは、自己家畜化のスピードが増している世界において、自己家畜化仮説の友好性とうモノサシからみたとき、診断名はどうであれ”他者の感情が読み取りにくいという点”と”邪悪性”という特性は、友好性から別のベクトルを向く性向として判断されることが起こり、ヒトから排除の対象として見られてしまう可能性が大いにあるのではないかということです。(数多の精神疾患を表す用語が登場してきていますが、この二つの性向だけはすこし様子が異なるのではないでしょうか?)
この邪悪性とはなにか?(『平気で嘘をつくひとたち』スコット・ペック)
邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである。
『平気で嘘をつくひとたち』スコット・ペック
そしてその邪悪性は、動物にはなく人間特有の事象であるという意見もあります。(『悪について』エーリッヒ・フロム)
悪ということは、人間的なものの領域をこえて、非人間的な領域へ移ろうとすることであるが、人間は「神」にはなり得ないと同様、動物にもなりえないから、悪は非常に人間的なものなのである。<悪はヒューマンなるものの重荷を逃れようとする悲劇的な試みにおいて、自己を見失うことである>。
『悪について』エーリッヒ・フロム
特に空気を読むという自己家畜化の究極形態を体現しているような日本では、非障害自閉症スペクトラムの方は最も生きにくい環境なのではないかと想像できます。
※以下の動画はYoutubeチャンネル 俺たち天下のゆとりーマンさんの製作された埋め込み動画です。精神科医の益田祐介さん監修のリアルなASDについての動画となっております。参考動画
どこかで衝突してしまう運命が待ち受けているといっても過言ではないかもしれません。
次に、ダークトライアドまたはサイコパスと呼ばれる特性について。
※以下は臨床心理士でもある原田隆之先生による「マイルド・サイコパス」についての記事です。参考記事
https://www.rosei.jp/readers/article/81085
(記事にあります4つの因子を略称してサイコパシーと呼ぶことにする)
経済学とサイコパシーの関係
上の記事からわかるように、私たちはどこかで彼らを知っています。かなりの程度で、社会や組織にダメージを与える人格の持ち主のようですが、しかしながら、経済学ではそんな彼らを必要としてきた歴史もあるといえましょう。
経済学でよく耳にするアダム・スミスは『道徳感情論』では師フランシス・ハチスンを踏襲した形で人間のもつ共感という能力が道徳を形作っていると説いていましたが、『国富論』ではバーナード・マンデビルの『蜂の寓話』に代表されるような、”利己心の見えざる手”への言及が一人歩きしてしまいました。『道徳感情論』アダム・スミス、『国富論』アダム・スミス、『道徳哲学序説』フランシス・ハチスン、『蜂の寓話』バーナード・マンデビル、)
無制限の利己心は、自己家畜化している人間ほど不得意なものはないでしょう。ほぼオートで他者の感情を読み取ってしまい、空気をよみ、共感してしまう。そのような人にとって利己心は必要最低限に止めてしまうでしょうし、ましては罪悪感まで湧き起こってしまうかもしれません。
しかし、歴史的には他者とのコミュニケーションが苦手な代りに、自分の好きなことに没頭し非常に高い集中力を発揮することが可能な人もいます。その中には、偉人として歴史に名を刻んできていることも確かです。天才として有名な人物の自伝やエピソードのいくつかには、この自己家畜化からの逸脱対象としてみられることが記されているパターンがよくあります。また、不安や恐怖という感情が鈍いという面は、戦闘面で有利に立ちます。歴史上では戦争時の「英雄」として称賛されもする存在であったということも認めなければなりません。
さらに現代は正解のない時代とも言われているように、皆と同じような行動をとっているよりかは、模索や挑戦、工夫や創造、さまざまな視点が求められています。ここに重なるところがある存在であることも確かなところであり、何かが欠けた劣った存在であるという認識は誤りであると言わなければなりません。
創造的破壊に隠れるサイコパシー
次に『資本主義・社会主義・民主主義』ヨーゼフ・シュンペーターの創造的破壊というキーワードも後押ししているように思えます。無制限の利己心に突き進むことは、他者との衝突は免れないことでしょう。イノベーションは時にそういった勢いを必要とすることに紙一重の関係があるようです。しかし、それを創造的破壊として誤認する場合、法の許すかぎりにおいて黙認されることがおこりえます。ここに活躍の場があるのがサイコパスと言われております。(『資本主義・社会主義・民主主義』ヨーゼフ・シュンペーター)
ケヴィン・ダットン『サイコパス 秘められた能力』では、サイコパス度が高い職業調査の結果、一位はなんとCEOという結果を発表しております。取締役会ではシュンペーターの創造的破壊を期待してサイコパスが選任されるのだろうと予想できます。このように診断名こそないサイコパスは、この資本主義の活動に親和性をもっているという側面があるのです。(『サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン)
<サイコパス>とは、人間の感情を失ってしまった怪物ではなく、ひょっとすると人間の感情をより多く純化して身に着けてしまった感情過剰人間であるかもしれないのだ。あるいは抑制が外れたために人間の本性が剥き出しになっただけの可能性もある。
『冤罪と人類』 管賀江留郎 早川書房 p561
ただし、人間は遺伝子にのみに決定されているわけではないため、「脳の可塑性」という可能性が内包されてると考えることもできます。社会的に完全な悪をなす存在として、完全に排除の対象とすべきかどうか、あまり表立って語れない内容でありながらも議論の只中にあるといえましょう。 アラン・フランセスの『<正常>を救え』において、人間は悩む力とともに、立ち直る力ももっていると謳っています。やたらめったら病名・診断名を付けて異常とレッテルを貼ることことは人間のこの大切な能力を失いかねないと警告しています。さらにこの精神医学界の背後で蠢く製薬会社の存在にも忠告しております。
資本主義というシステムとサイコパシー要素は親和性があると指摘したように、当然この製薬会社もサイコパシーの強い行動が起こることは否定できません。これは製薬会社に限ったことではないように、その挙動の枚挙にいとまがないといえましょう。カモ釣りという経済学的病理を指摘しつつも功利主義的意見をもつ『不道徳な見えざる手』ジョージ・アカロフ、ロバート・シラーは刺激的な著作です。(『不道徳な見えざる手』ジョージ・アカロフ、ロバート・シラー)
集団に現れる暴力性
しかしながら、この破壊的衝動はサイコパシーの強い人物だけに起こることではないようです。人々は集団の一員になるべく自己家畜化しているという仮説で話を進めてきましたが、こと集団の外に対してはその姿が豹変する、たとえ一人ひとり良心をもっていたとしても、集団の暴力性が出現する場合があるといいます。スタンレー・ミルグラムの服従実験はその例としてよく引き合いにだされます。(アルバート・バンデューラ 責任の分散と非人間化)
以下『平気で嘘をつくひとたち』スコット・ペックから参照
専門化集団についての三つの一般基本法則
1、専門化した集団は必然的に自己強化的な集団特性を身につけるようになる。
2、自分たちの集団は他に類を見ない正しい集団であり、他の同質的集団より優れていると思い込むようになる。
3、自己選択と集団選択を通して、社会全体が専門化された役割を実行する特殊なタイプの人間を雇い入れるようになる。
集団の持つ最大化の利点のひとつは専門化である。しかし、集団のなかの個人の役割が専門化されているとき、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁されがちである。こうしたかたちで個人が良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され良心が存在しないも同然となる場合がある。
『平気で嘘をつくひとたち』スコット・ペック
そしてこのような事態が認められている以上、組織的暴力の発動やその軽減をいかに考えていくかが課題となっています。(『善と悪のパラドックス』リチャード・ランガム)
国内ニュースからみる参考例
最近の日本国内での例で言えば、
参考書籍:『水俣病』原田正純
単なる破壊と・創造的破壊は紙一重といっても過言ではありません。しかし、単なる破壊と混同してしまう事態やそれを許容してしまうことは、大きな損失を被ることになるでしょう。特にモラルの破壊はそう簡単に修復されるものではありません。パワハラ・セクハラ・企業の戦略決定など、どこかでそれは間違っていると判断できるような知恵を私たちは早急に必要としているのだと思います。そしてそれが現代の課題の一つなのではないかと思います。
サイコパス研究の第一人者であるロバート・ヘアは、上の例のような創造的破壊を期待されながらも結果は破壊しか残さない人物を”隠れ有罪サイコパス”と名付けています。(『診断名サイコパス』ロバード・D・ヘア)
このような人たちを成功したサイコパスなどと呼ぶよりは、むしろ、「隠れ有罪サイコパス」と私は呼びたい。結局のところ、彼らの成功は多くの場合、幻想であり、いつだって他人の犠牲の上になりたっているのだから。彼らの行為は法律的には違法ではないけれども、概して伝統的な倫理の規範を犯していて、法律の陽があたらない部分でおこなわれている。非情で、貪欲で、明らかに意識的に平気で悪事を働く人たちとはちがうし、人生のほかの部分では比較的正直で共感を感じることもできるものの、隠れ有罪サイコパスは生活のすべての分野において、サイコパスの犯罪者とほとんど同じ行動や態度をとる。仕事で嘘をつき、相手をだまし、なにも咎めもうけず、それどころかその仕事ぶりを褒められたりする彼らは、人生のほかの部分でも嘘をつき、人をだましている。
『診断名サイコパス』ロバード・D・ヘア
どこまで多様性は可能なのか?
何やら差異や多様性が無批判にそれだけで肯定される現代思想的風潮がゆるやかに浸透しておりますが、はたしてどこまでも肯定は可能なのでしょうか。
研究が進むにつれて、認識が広がるにつれて、今まで多くの人災のいくつかを災難や不運とみなしていたいくつかが、このような対象によって引き起こされたものだと知るとき、それでもなお肯定を選ぶことができるのでしょうか。(またはコントロールしうようと構築の道へ向かうのでしょうか)
非障害自閉症スペクトラム、俗に言うASDに近い特性をもつかれらは、カサンドラ症候群という近親者や同僚に知らず知らずのうちに困らせてしまう特徴をもっていると言われております。純粋に手助けしようとした側が病んでしまうという、なんともいたたまれない事態がそこにあるというのも事実です。
皆で手を取り合っていこう!お互いを補い合う集団となろう!という理想的な言葉がありますが、実際に関わってきた人々の生の声は惨憺たるものが多いように思います。(※ネット上の記事にコメントされている文面などから受けとった個人的な感想です)
「二度と関わりたくない。」
「関わって自分が鬱になった。」
「関わるだけ時間の無駄。」
(※youtubeやネット上の記事にコメントされている文面から要点のみを抜き出したものです)
具体例としてちょっと過激な意見も多いですが、
note:職場のアスペルガーくんが厄介すぎる。 コメント欄参照。
(『自閉スペクトラム症』岡田尊司、『自閉症スペクトラム』本田秀夫、『発達障害と人間関係』宮尾 益知、『カサンドラ症候群』岡田尊司)
しかし一方で障害という言葉が先行し、誤った認識をしているのかもしれません。協調や互いの利益の調整という視点が異なるだるだけで、役割やポジションがうまくマッチするならば、車の両輪としてやっていくことができるのではないか。京都大学霊長類研究所 教授 正高信男さんの記事は、上のような一方を毛嫌いするような暗い未来を退けてくれています。
「語ってはならない」が物象化を引き起こす
現在この問題はとてもシビアな問題となりつつあるように思います。
訴訟社会のアメリカではセクハラ訴訟やパワハラ訴訟で巨額の損害賠償金が請求されるなどのリスク度の高い問題ということもあり、「ビジネス・スキャン」という企業版「サイコパス・チェックリスト」を開発し、これを採用する会社が増えていといいます。
なぜ、「邪悪な性格」の持ち主は成功しやすいのか?という記事をみてますと、
15年間もの継続的調査によって次のことが判明している。サイコパシーやナルシシズムの特性を持つ人は組織階層の上位に多く見られ、経済的な成功度も高い(英語論文)。これらの発見と一致する研究として、ある推定によると、臨床レベルでサイコパシーと判断される人々が企業の取締役会に存在する割合は、全人口に占める割合より3倍も高いという(英語論文)。
なぜ、「邪悪な性格」の持ち主は成功しやすいのか? トマス・チャモロ=プレミュジック
日本ではそこまで急激な動きはありませんが、最近は「社会人基礎力」として新たに才能や知能指数や学歴ではなく、個人のやり抜く力こそが、社会的に成功を収める最も重要な要素であると語られるようになりました。しかし、取締役や上司にサイコパシーをもつ人物が付きやすい研究結果という事実がある中で、新入社員にはその存在とは真逆の社会人基礎力としてグリットやEQを持つ人物を欲している企業とは一体なんなのか。かなり矛盾に満ちた世界がそこにはある気がします。(その深淵で蠢くリスク社会、『危険社会』ウルリッヒ・ベック)
重要なことは、手を取り合うには一方だけが知っているだけでは成り立たないということでしょう。お互いがお互いを知らなければならないようです。自分が他人のためと思う想像と、他者が他人のためと思う想像との間に違いがあるということを。そしてそれを今一度確認するために、その想像の違いの隔たりを埋めるためにお互いに知り、コミュニケーション(ケア)をしていく以外に知るすべがないといえましょう。
IT・AIがもてはやされる世界で
このタイプの問題は、経済に関わり合いがありながらも、”成長資本主義と三杯目のビール”『善と悪の経済学』トーマス・セドラチェクにおいて語られているような、経済成長により気にならなくなる問題とは異なるように思います。(『善と悪の経済学』トーマス・セドラチェク)
むしろ半世紀前の指摘にように、サイコパシー研究の先駆者であったハーベイ・クレックレー『The Mask of Sanity』やロバート・リンドナー『心の秘密』が警告していたように、社会崩壊が既にはじまっていたと身構えた方がいいかもしれません。
進歩とは異なる軸にあるこの自己家畜化仮説は、ポストモダニティーにおいて大きな役割を担っていくのかもしれません。「人間性」という概念が消滅しかかっている現代、「ビジネス・スキャン」によりすで始まってしまっているわけですが、どこかでジャッジしなければならない未来がすぐそこまで来ているように思います。
「選別」が加速する世界で、最後に哲学的な話題に接続する問を発して終わりにしたいと思います。
このように私たちが自己家畜化してきたとすれば、道徳とは何でしょうか?
哲学堂書店 浦山幹生
店主のおすすめ本
コメント