蔵書家・愛書家

前回の『パラフィン紙 グラシン紙 ブックカバー』を書いてから、1年の放置期間がありましたが、今回やっと更新できました。優先の仕事があったり、資料を集めていたこともあり遅れてしまいました。引き続き少しずつ進めていければと思います。

積読(つんどく)

人が物を集めたり、収集する行動は生得的なものか、環境に生きる過程から獲得した欲求のためか、はたまた代償行動の一種なのかは定かではありませんが、それらが目の前にあったり、積まれていたりするのを見るのはとても刺激が強いものです。ここでは「本」を中心の話題にしていきたいとおもいます。

最近話題として上がった「積読(つんどく)」という言葉があります。気になった本を買ったはいいものの、読まずに机の上に積んだままでいることや、読み通すことなく置いておくことを「積読」と呼んだりします。はたから見たら何のために買ったのか?無駄遣いではないのか?と思えてしまいますが、一方で知的刺激を与えてくれる側面を持っているとも言えます。

人はこの本を読んだら次はこの本を読もうという順番をどこかで決めていることが多いはずです。そうすることで知的欲求が途切れることなく、ある意味で意欲や活力が維持され得るところがあるようです。またプライミング効果を引き合いに出して語られるなど、肯定的な論調が多いというもの特徴であるように思います。

この側面はとても重要で、コレクション・収集とはなんでもいいから集めるものではなく、さまざま物の中から「私が好きなもの」、「私が気に入ったもの」を選び、自分の手元に置いておく物とするならば、その物はそれ自体から意欲を得る機会を受ける側面があると言えるかもしれません。

ビブリオフィリア(Bibliophilia)

しかし、当の「私の好きなもの」、「私の気に入ったもの」そのものに対する理性的な省察をどこかで怠ってしまうと、収集する行為が即欲求を満たすものにすり替わってしまう危険性があることも指摘しておく必要があるかもしれません。 もしかしたら積読や収集とうまく付き合っていかないと、気が付かぬ間に病的な事態へと陥っているかもしれません。というのは、愛書家を指すビブリオフィリア(Bibliophilia)という言葉の他にビブリオマニア(bibliomania)という「蒐集家」「猟書家」「書物狂」などと訳される言葉もあるからです。

2018年7月29日のBBC Newsに記載された「Tsundoku: The art of buying books and never reading them」の記事においても、ビブリオマニア(bibliomania)に触れている箇所があります。

ビブリオマニア(bibliomania)

ビブリオマニア(bibliomania)という言葉は、1809年に出版された書誌学者のトマス・フログナル・ディブディンの『書物狂(Bibliomania Or Book-Madness)』において、本を集めるのを止められない行動:蔵書癖を表す言葉として使われておりました。ディブディン自身はユーモアを交えながらも、記事にはビブリオマニアという言葉にオブセスト(obsessed):”取り憑かれている”という表現を使用しており、現代でいうところの強迫観念のようなニュアンスが込められていたとみています。
※Thomas Frognall Dibdin 『Bibliomania:Or Book Madness』Cambridge University Press

しかし、2世紀が経つにつれ、英オックスフォード大学出版会によれば、ビブリオマニアという言葉は強迫観念について表した言葉ではなくなり、収集への「情熱的熱意」へと意味を変えてきたといいます。オックスフォード大学出版会のTwwiter公式アカウントOxford DictionariesにはBibliomania: passionate enthusiasm for collecting and possessing booksとツイートされてもいます。

「ビブリオマニア」と「積読」には似たような側面があるけれども、前者にはただコレクションを作るという意図が先行する事態を指すのに対して、後者は本を読みたいという意図により結果、偶発的にコレクションが出来ることの相違を指摘しています。

通常のコレクターを「愛書家」と言うときはビブリオフィリア(Bibliophilia)という言葉が使われます。海外では紀元前から、日本では17世紀ごろからそういったコレクターの歴史が見られるようになります。当然、紀元前からパピルスや羊皮紙(パーチメント)・ヴェラムを使った本が作られていた西欧諸国に愛書家傾向のある人物の登場が早いのは言うまでもありません。

以下 紀元前頃の蔵書家・愛書家を取り上げてみます。

紀元前頃の蔵書家・愛書家

新アッシリア王国時代のアッシリア王 アッシュールバニパル(Ashurbanipal)

(紀元前668年-紀元前627年頃)

パピルス文書や粘土板収集に熱中した王として知られており、一大文庫を創造し図書施設を建設したと伝えられています。1852年、考古学者オースティン・ヘンリー・レイヤードのアシスタント ホルムズド・ラッサムがアッシュールバニパルの宮殿跡から多数の文書記録の発見により、その名に因んでアッシュールバニパル図書館、または首都の名に因んでニネヴェ図書館と呼ばれています。

※アッシュールバニパルの臣下 ナブー(Nebo)
代々続く学者の家に生まれ、家に伝わっていた蔵書を多数所有していたとされます。この蔵書がアッシュールバニパル図書館の母体になったとも伝えられています。

古代ギリシャ アテネの僭主 ペイシストラトス(Peisistratos)

(紀元前6世紀頃–紀元前527年)

僭主政 の僭主であったペイシストラトスは、アリストテレスの『アテナイ人の国制』によると博愛で温和かつ民主的であったと伝えられています。また国内ではじめて公共図書館を設けたと伝えられています。

古代ギリシャ 哲学者 アリストテレス(Aristotle)

(紀元前384年-紀元前322年)

アリストテレスは学園リュケイオンを開設、同時に大文庫も持っていたと伝えられていますが、蔵書数や所在について不明となっています。一説にはアリストテレスの死後、学園リュケイオンを引き継いだ弟子のテオフラストスに渡り、さらに学園の書誌長ネレウスの手に移ったようです。また、ちょうどその頃紀元前2世紀 ペルガモン王エウメネス2世が羊皮紙の生産を開始することになります。羊皮紙誕生の地ペルガモンと呼ばれるように、時代は書写や書物の収集が盛んな状況になり、学園の大文庫も強奪の恐れがあったため土中に隠したとか、テオスのアペリコンという富豪に売渡したとも伝えられています。さらにアペリコンは第三次マケドニア戦争でデロス島の軍司令官を務める中、ローマ軍に敗れ文庫はローマに移されたとか、エジプトに渡ったとかはっきりとはわかっておりません。

プトレマイオス朝エジプトのファラオ プトレマイオス2世(Ptolemy II Philadelphus)

(紀元前308年-紀元前246年)

古代最古の二大図書館のひとつアレクサンドリア図書館を創設した プトレマイオス2世は、パピルスの収集に熱心で、ギリシャはもちろんアジアにまで人を派遣し費用を惜しまず書物を集めさせたと伝えられています。跡を継いだプトレマイオス3世にいたっては、エジプトに入港する船に書物があると、すぐさまその本の写本を買取ったり、場合によっては原本を取り上げて写本を返すという暴挙を行うこともあったと伝えられています。当時エジプトはパピルスの生産地であり、写本を通して書物の一大生産者でもあったことから地中海の各地から学者たちが集う地でもあったようです。かのユークリッドやアルキメデスが学んだとも伝えらえられています。

アッタロス朝の君主 エウメネス2世(Eumenes II)

(紀元前197年-紀元前159年)

古代最古の二大図書館のもうひとつペルガモン宮殿図書館を創設・拡張したエウメネス2世は、アレクサンドリア図書館と蔵書数を競い合っていたようです。争いあう中で、エウメネス2世はアレクサンドリア図書館の館長であったアリストファネスを引き抜こうとしたため、プトレマイオスの怒りをかいパピルスの輸出を止められてしまうことになります。しかし、代替品を捜し求め、羊やヤギの革を使った羊皮紙(パーチメント)やヴェラムを使用することにより大きく書物の歴史を変えることになりました。

古代ローマの軍人 ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス(Lucius Aemilius Paullus Macedonicus)

(紀元前229年-紀元前160年)

第三次マケドニア戦争でローマの勝利に導き、マケドニア王ペルセウスを捕縛する成果を上げる中、マケドニア国内の財産をローマの名のもとに没収したとされます。没収した物の中に書物が多数含まれており、これがローマにおける蒐集のはじまりとも。後に書物は息子(小スピキオ)に引き継がれていくことになります。

古代ローマの軍人 ルキウス・コルネリウス・スッラ(Lucius Cornelius Sulla)

(紀元前138年-紀元前78年)

第一次ミトリダテス戦争時に大軍を率いてアテネへ侵攻した軍人です。戦利品として神殿の財宝や私財を没収するなかで、アリストテレスやテオフラストスの文庫の本も持ち帰ったようです。後にアテネに移り住み、アテネの復興に力をいれ、同時代の蔵書家アッティクスとも親交があったと伝えらえられています。

古代ローマの軍人 ルキウス・リキニウス・ルクッルス(Lucius Licinius Lucullus)

(紀元前118年-紀元前56年)

ティグラノセルタの戦いでアルメニア軍を破り、戦利品として書物を多数持ち帰り邸宅に置いていたようです。知友や学者の閲覧を許可していたことから、ローマの貴顕紳士のあいだで書物を尊重する流行ができたとも伝えらえています。

古代ローマの学者・著作家・政治家 マルクス・テレンティウス・ウァロ(Marcus Terentius Varro)

(紀元前116年-紀元前27年)

著作家として生涯で74の作品、約620巻を記したと推測されていますが、そのうち完全な形で残っているのは1作品のみとなっています。法務官を勤めるなど政治家としても活動していたが内戦に巻き込まれて最終的には追放されることになります。これに伴い蔵書を含む多くの資産が失われたと伝えらえています。

古代ローマの知識人 ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス(Titus Pomponius Atticus)

(紀元前110年-紀元前32年)

キケロとは幼馴染の間柄で、蔵書を多数もっておりキケロと同じく奴隷に文庫管理や写本係・校訂係が居たとも伝えられています。自ら出版業も始めたり、アテネでは ルキウス・コルネリウス・スッラとも親交があったと伝えられています。

古代ローマの政治家・文筆家・哲学者 マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero)

(紀元前106年-紀元前4年)

雄弁家キケロとも呼ばれたりするように、修辞学(レトリック)においも名が知られている人物でした。さらに、本の蒐集にも熱心だったようです。蔵書にはアリストテレスの『トピカ』があったとか。また膨大な自分の本の整理にギリシャ人奴隷を使って管理していたとも伝えられています。

書物狂

有名どころを見てきましたが、紀元前頃の蔵書家・愛書家の傾向を省みると、国家君主や軍人・貴族などの身分の高い家柄の人物が多く、図書館を作るなどの公共性を帯びた形を取る場合が多く見られます。帝政時代・中世は割愛いたしますが同様な傾向が見受けられます。

以後、ローマの都がコンスタンチノープルに移り、東方と西方との学術上の連絡が絶たれたり、キリスト教が盛んになるにしたがって異教徒の研究が抑圧されはじめると共に西ローマ帝国の衰退が始まると、イギリスを除く西欧は通称暗黒時代へと突入していくことになります。徐々にキリスト教の影響が強くなることで、本の蒐集は修道院・教会の手にゆだねられ、修道士・司教の最大任務とされることもあったといわれています。主にトルコのカイザリアの修道院、アルジェリアのヒッポの教会、ヒルデスハイム修道院、テーゲルンゼー修道院、イタリアのモンテカッシーノ修道院での蒐集活動が知られています。しかし、キリスト教会の権威が強く、異教徒の文学や古代ギリシャ・ローマの古典は、発見次第これを破棄したこともしばしばあったといわれています。(見向きもされず放置されていたものも多数あり、ルネサンス時に再発見されていきます)

ビブリオマニア(bibliomania)の登場は、ルネサンスを経て18世紀まで待たなければなりません。
ウィリアム・ヤンガー・フレッチャーの『イギリスの蒐集家』には、イギリスの蒐集家について記されていますが、その内9人が大司教であり、公爵6人、伯爵12人、男爵9人、勲爵士5人、牧師7人、弁護士5人、医師4人、作家10人、官史5人、商人5人となっています。これまで大司教や貴族が蒐集任務であったり、趣味であったものが、時代を経ることで学者や医者、政治家、批評家などの間にも広がり、個人文庫がいくつも作られるようになっていくことがうかがえます。※William Younger Fletcher 『English Book Collectors』 London.Forgotten Books

特にビブリオマニア(bibliomania)的な、本を読むための蒐集ではない目的が先行してしまった事例が登場するのはこの時代から見受けられるようになっていきます。

リチャード・ヒーバー(Richard Heber)1773-1833年

イングランドの書籍蒐集家としられている彼は、各地に8軒の家(倉庫)を所有し、蔵書は10万冊を超えていたと伝えられています。特徴的なのは少年時代から蒐集が始まり、同じ本を3冊保有することを謳っている点といえましょう。彼曰く「同じ本を3冊、一冊は見せるため、もう一冊は使うため、もう一冊は貸すために所有できないのなら真の紳士ということはできない」という言葉を残しています。30年のあいだロンドンの競売場に顔を出さぬことはなかったといわれるほど、 書物狂(bibliomania)であったと伝えられています。

トーマス・フィリップス卿(Sir Thomas Phillipps)1792-1872年

世界最大の写本収集家と知られ、英国史上最大の個人コレクションを所有していたと伝えられています。収集活動の詳細は書誌学者などに研究され、アラン・ノエル・ラティマー・マンビーの『フィリップス研究 全5巻』に記録がのこされています。彼の収集の動機は、パーチメントやヴェラムの本に、心ない業者に粗末に扱われるのを阻止するために始めたようで、珍しい本を買っても読もうとはせず、相当数が荷造りされたまま置かれたあったようです。

※A.N.L.Munby 『Phillipps StudiesⅠ-Ⅴ』Cambridge University Press.

ジョン・バグフォード(John Bagford)1650-1716年

もともとは靴屋を営んでいたが、本業が成功していなかったため、ロンドンのホルボーン、オランダのハールレム、アルステレルダムの本取引市場で活動するようになったと伝えられています。また当時のコレクターや古物研究者と交流しながら、後のロンドン古美術商の創立会員の一人として活動もしています。古美術商であった傍ら蒐集家でもあった彼はいささか変わった物を集めていたようです。彼が集めていたものは本の標題紙と奥付のページのみであり、本から切り取って集めるという、一風変わった収集をしていたといわれています。このように本の一部を破壊して収集する行為をビブリオクラスト(Biblioclast)と呼ばれ、彼の場合はイギリス古美術商の名を利用してドイツ、フランス、オランダの各図書館を歴訪し、珍書、稀書から館員の眼を盗んでは盗み取っていたようです。
後の書誌学者ウィリアム・ブレイズ(William Blades)1824年-1890年は、『書物の敵』でこのような行為を痛切に批判しています。
※William Blades 『The Enemies of Books』London.Macdonald General Books

おわりに

以上の3名はかなり重度な例を取り上げましたが、現代では一般に本を骨董品(アンティーク)のように取り扱うことはめずらしくありません。湿気から守るために本棚を木製にしたり、すこし気にかけるくらいのことは一般的であったりします。また日本では独特のブックカバー文化が生まれており、日焼け対策としてグラシン紙で包む行為は欧米よりも一般的であるといえましょう。

この点でもっとも影響を与えたのは大正・昭和と続く新潮文庫や角川文庫、岩波文庫にみられるグラシン紙でしょう。新潮文庫や角川文庫は比較的早く、岩波文庫は1983年5月まで、ブックカバーの前身としてグラシン紙がその役割を担っていました。当時は包み紙の延長であっただけなのかもしれませんが、包装の透明性や安価であることからも定着していったと考えられます。

次回はブックカバーの歴史について書いていきたいと思います。

哲学堂書店 浦山幹生

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