映画「道草」9月28日 東村山中央公民館 上映のおしらせ

ドキュメント映画 「道草」

監督:宍戸大裕

道草 ポスター表道草 ポスター裏

9月28日 東村山中央公民館で上映いたします!

※ バリアフリー字幕付上映


詳しい上映情報はこちらをご覧ください

当日券:900円 (前売り券700円)

開場 9:45分
開演 10:15分

※前売りチケット取扱所

社会福祉法人山鳩会 各事務所
ひなたの道 東村山市廻田町1-15-1
あきつの園 東村山市秋津町5-11-15
なごみの里 東村山市恩多町5-38-4
みどりの森 東村山市諏訪町1-27-2

 

昨今、ノーマライゼーションやインクルージョンが話題になることが多くなったように思います。厚生労働省の調査によりますと平成29年には福祉施設の総数は全国で約7万を超え増加しているようです。福祉施設といえど、老人・(精神)障害・身体障害・児童福祉と数多く含まれておりますが、ここでは障害者支援の話題に限定して話を進めていきたいと思います。

 

かつて日本では障害者支援施設が身近になかったため、「私人が行政庁の許可を得て、私宅に一室を設け、精神病者を監禁する」という制度が存在しておりました。家族が届出を出して特に精神障害者を自宅で監禁し外に出さない私宅監置が行われていたようです。ここに社会的な排除が行政によって管理されていた歴史が1950年ごろまであったことを省みますと、社会環境においてそもそも私たちは、知らないがためにどのように接すればいいのかわからない事態を生む土壌がすでにあったのかもしれません。

 

話題のインクルージョン・クラスルームやインクルーシブ・エデュケーションを安易に賛同するつもりはありませんが、私の通っていた都内の小学校には「すぎの子」という軽度の障害がある児童生徒が通う通級指導学級が学校の片隅に設置されておりました。関わりが完全に断ち切られていない環境であったため、幸いにも今なお頭の片隅に生き続けております。無理に一緒の教室内でなくとも、同じ校舎に居るということはとても大きいことのように思います。

 

しかし現代はもっと根底に問題の根があるのかもしれません。ポストモダンという言葉で表現されるような、根本的な人間観の混乱を尻目に、一人歩きしてしまう経済合理性とその画一化による価値観の硬直は、この場合例え障害者への理解を促したりしても排除が消えることはないように思います。ジャック・ヤングの『排除型社会』で指摘しているような、後期近代社会のある意味での社会的破綻は緩やかに進行していかざるを得ないのかもしれません。2018年に起きた南青山の児童相談所建設反対運動はヤングが指摘するような”安易な本質主義”の典型に見えますし、一方で包摂の急務から社会保障および福祉施設等が増え続けている一方、国家の緊縮財政の方向は変わらずにあることから、上から為される包摂と税全般に対する”安易な本質主義”との齟齬が現れているように思います。

 

1981年国際連合の「国際障害者年行動計画」の中では、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合,それは弱くもろい社会なのである」と謳っています。日本が弱くもろい社会へと向かっているのかどうかはわかりませんが、2016年 福祉施設入所者19人を刺殺した相模原障害者施設殺傷事件や 2018年の省庁及び地方自治体等の公的機関で障害者雇用水増し問題にみれられるような、包摂の名の下で起こるある意味での偽善への抵抗の術がないことから、関連する事件の数々は私たちの内心を表す鏡として受取ることができそうです。

 

カウンセリングの祖といわれるカール・ロジャースはカウンセラーに求められる資質として「人間的可能性をもつひとりの人への無条件の肯定的な眼差し」を語っていますが、この点はカウンセラーに関わらず、私たちの他者や自分自身への可能性への期待や希望の欠落は、いろんなところで何か困難が生じてしまうように思います。

 

映画「道草」は宍戸大裕 監督による知的障害がある方の自立支援にスポットを当てたドキュメンタリー映画です。特別なことが起こるわけでもない日々の日常、しかしそこには私たちの普段の生活にはない、知らない人には知らない現実が映し出されています。何かを求めるわけでもなく、何かを望むわけでもない。何か内から湧き出てくる契機となればと思います。

哲学堂書店 浦山幹生

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